スピカ
 固い音を鳴らしながら、階段を駆け上がる。背後から不安が追い掛けてくるような感じがした。得体の知れない怖さが、胸に押し寄せる。

楸さんが来てからというもの、この部屋には、全く、世話ばかり焼かされている。一体、今まで何回この扉を叩いたのだろう。
この112号室という部屋が、どれほどあたしに手を焼かせ、また、こんなにも特別な部屋になるなんて思ってもみなかった。中身は他と何等変わらないのに。

コンコン、と2回ノックする。今度は不思議と躊躇わなかった。
待っている時間がもどかしくて、そのくせ何も考えられなくなる。もはや、あたしは冷静な女なんかじゃない。
冷たさを実感し始めた手をぎゅっと握り締め、もう1度扉を叩く。


でも、今度もまた返事が返って来ない。

もしかして、居留守を使われているのだろうか。
嫌なシチュエーションばかりが浮かび上がり、上手に、頭の中に突っ掛かる。もしそうだとしても、理由が家賃じゃない事は考えなくても分かる。

「ねぇ、楸さん」

強く、響くように。声が震える。

「いるんでしょ? ねぇ」

辺りを見回してみたけれど、何もないし、誰もいない。太陽は高く昇っていて、朝と言えども、もう昼に近いという事が分かった。
寝ているのだろうか。昨晩、深夜に帰って来たのなら、大いに有り得る。

「楸さんってば!」

ガンガン、と強い音が静かな住宅街に響いていく。

これだけ叩いても、うんともすんとも返事をしない。物音1つ、聞こえてこないなんて。苛立ちと不安とが絡まり合い、歯の奥を噛み締めた。

「起きろよ……っ!」

強く蹴ると、ドアからは鈍い音が鳴った。反動で足先がじんじんと痛む。

乾燥した風が、寝起きのあたしには少しきつくて、はっきり開いていなかった目に突き刺すような痛みをもたらす。身体全体は寒いし、握り締めた指先も感覚がないほど冷たい。

風が連れて来るのは、寒さと冬の匂いだけで、扉の内から、あの匂いが漏れてくる事はない。なおも、ドアは開かないままだった。
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