スピカ
 それに、と付け加えると、楸さんは両肩を掴んだ。より真っすぐに、目が合う。凄く、真剣な眼。

「俺が出ていく訳ないじゃん」

しっかりとした声で、宥めるようにそう言う。

「で、でも! そんな事言ったって、楸さんは家を継がないと……」

「はぁ? たった今、出ていくなって言ったのは誰だよ、全く」

堅かった表情がふいに緩む。呆れて笑う楸さんを見るのも、何だか苦しくて。伝わらない事がもどかしくて。壊れそうだ。

「……ただの我が儘女なんだよ、あたし」

出ていくな、なんて。無理な事くらい分かっているのに。

「本当、我が儘だ。呆れちゃう」

あたしだって、自分に呆れてる。楸さんに言われなくたって、分かってる。
これじゃ、素直なんかじゃなくて、ただ聞き分けがないだけだ。

「素直過ぎて、雅ちゃんらしくないな」

ひょいと身体を屈め、足元の傘に手を伸ばす。開いたままの傘の内側には、雪が積もっている。拾うと、まるで泥みたいに重々しく地面に落ちていった。

「素直になれって言ったのは誰だよ」

「あ、俺か」

あはは、と吐息が零れる。少し強くなった風が、白い息を掻き消していった。

「雅ちゃん。勘違いしてるみたいだから言っておくけど」

流し目で捉えられ、身体の内側がぞくりとした。まるで、心臓に風でも通ったみたいだ。

「どっちにしろ、俺は長男だけど、親父の後は継がないよ。前にも言っただろ?」

雪を振り落として、透明な傘を再びあたしに被せ、柄をしっかり持たせる。

「姉ちゃんがいてさ、家は、その旦那が継ぐ事に決まってんだよね」

それでも、握り締める事が出来ずに、傘は掌から滑り落ちてしまった。

「……旦那?」

慌てて、楸さんは下でそれを器用に捕まえた。

「婿養子って訳じゃないんだけどね。俺なんかより、余程マシでしょ」

へへっ、と笑うと、口元に皺が刻まれた。髪の隙間から銀のピアスがちらつく。目を吸い寄せられていると、楸さんは曲げていた身体を起こした。ふわりと香った匂いがあたしを現実に呼び戻す。

「だから、出ていかないよ」

低い声でそう言うと、楸さんは傘をあたしの肩に寄り掛けた。
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