スピカ
 ああ、どうして足を止めてしまったんだろう。
わざわざ待ってあげるなんて。あたしはやっぱり律儀で、ただの馬鹿だ。

「あれぇ?」

黒い革財布に冷色の光を当てて、首を傾げる。わざとこんな仕種をしてる訳ではなさそうだ。何となく。本当に浅はかな人だから。

財布には一丁前に有名な銘柄のロゴが。持ち主と持ち物が一致していない。貰い物、いや、貢ぎ物か何かだろう。

「雅ちゃん……」

子犬のような目をあたしに当てる。蛍光灯の光を反射して、余計に潤んで見えるのは奴の技か。
分かっていても怯んでしまう、あたし。

「10円貸して下さい」

「……煙草買いに来たくせに、足りないんですか」

目が自然と憐れみを含んでしまう。
楸さんはブンブンと小刻みに首を縦に振った。行動の1つ1つが小動物みたい。

小さな溜め息が鼻を通っていく。きっと同情の言葉しか出てこないだろうから、口を閉ざしたまま鞄に手を突っ込む事にした。

化粧ポーチやら携帯やらが、ブレスレットに当たって少しイライラする。帰ったら鞄の中を整理しよう、と脳の隅っこに刻み込んでおいた。

コオロギ色の財布を取り出すと同時に、慣れた手つきで中を調べる。それから、

「はい、10円」

と、掌に平たい硬貨を転がした。

「ありがとう」

「いいよ、返さなくて。あげます」

ごつい財布を鞄の中に戻す。物がごちゃごちゃしていて、戻すと言うよりも捩込む、って感じ。
カラン、と数回コインの落ちる音がして、楸さんは慣れた手つきでボタンを押した。あの嫌な匂いのする煙草は、こんな所で買っていたのか。

取り出し口から、濃藍色の箱が顔を覗かせる。如何にも毒々しい色。パッケージには青白色の文字で、“Spica”とある。
周りのナイロンが剥がれていく。光の反射が無くなり、そのせいで更に、それが煙草の箱に見えなくなってしまった。

「じゃあ、あたし」

「ん、もう行く?」

黒い眼がこちらに向く。冷色の光が、空まで射抜いてしまいそう。
目を合わせるのが嫌で、わざと時計を見るフリをした。

「うん、行かないと」


……別に、行きたくないけど。

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