スピカ
 パチン、と快音がすっかり暗くなってしまった路地に響く。
そっと手を退けてみるけれども、その下には何もない。くそぅ、逃したか。

もう10月だっていうのに、まだ蚊がいるらしい。さっきから獲物にされているあたしは、堪ったもんじゃない。蚊からすればあたしの血はご馳走なのかもしれないけれど、迷惑極まりないのだ。生憎、あたしは快く血を提供してあげるほど親切な人間じゃない。蚊なんて、大嫌いだ。

イライラしながらドアをパタンと閉めた。

「お帰りー」とリビングからお母さんの声が聞こえてくる。
ただいま、と返そうと思ったのだけれど、あたしの声は喉で支えて、そのままそこで止まってしまった。見覚えのある、履き潰したスニーカーが足元にあったからだ。

ああ、奴が来てるのか。

蚊よりも欝陶しい奴がいたとは。
そういえば、こいつは冬も冬眠してくれないんだった。

リビングに入ると、皆はホットプレートを囲んで座っていた。どうやら、晩御飯は焼肉らしい。

蛍姉がいるからてっちゃんはともかく、楸さんはそこにいるべきじゃないだろう。

「あ、雅ちゃん。お帰り」

いやいや。どうして我が家のように馴染んでるんだよ。お帰り、は可笑しいだろう。
「お邪魔してます」だろうが。

「こら、“ただいま”でしょ!」

お母さんも可笑しいだろ。突っ込む所じゃないでしょ、そこは。
納得はいかないのだけれど、渋々「ただいま」と呟いておいた。

「……何でいるんですか」

楸さんは青い箸をぴたりと止め、肉を凝視していた目をこちらに当てた。
あんな箸、うちになかったのに。
……まさか、持ち込んだのか?

「俺? 俺は、焼肉だからって満希さんが呼んでくれたから、来ちゃった」

来ちゃった、じゃねぇよ。来ないでくれ、あたしのストレスの元凶め。

「はぁ……」

「ほら。溜め息吐いてないで、雅も手洗っておいで。肉なくなっちゃうよ」

そう言いながらも、モグモグと動く蛍姉の口の中には肉があるんでしょ。ちょっとはあたしの分も取っておいてやろう、って気はないのだろうか。ただでさえ、食べ盛りの男、しかも他人がいるっていうのに。

こうやって頭の中で皮肉を並べる時間も勿体ない。冷静にそう考え直し、重い足を洗面所へ向けた。
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