スピカ
 帰れよ、と小さく呟く。それを耳で拾ったのか、亞未が丸い目を行き来させた。

「誰?」

「誰、って……」

「雅ちゃんの愛人でーす」

「違うわ!」

うちのアパートの住人、と言おうとしたものの、またもや邪魔をされてしまった。ふざけた戯言も大概にしていただきたい。
亞未は、ぽろりと落としてしまいそうなほどに目を見開いている。

「ちょっと! 亞未に変な事吹き込まないで下さい!
 違うから。うちのアパートの住人で、赤の他人だから」

「な、なんだ……びっくりしたぁ」

こんなほら吹き野郎に、騙されてもらっちゃ困る。
亞未は「だよねぇ」と加えて、自分を納得させた。

「つぐみちゃんって言うんだ? すっげー可愛いね。俺、楸っていうの。よろしく」

「わ、本当? ありがとう」

「よろしくー」と愛想を振り撒く亞未に、楸さんはデレデレ。亞未には、口説き文句なんて効かないのに。
いつもに増して緩んだ口元が不埒で、あたしは呆れて溜め息も出ない。

「雅ちゃんにこんな可愛い友達がいたなんて、びっくりだよ」

「……厭味か」

「今からどっか行くの? あ、もしかして1人?」

楸さんの注目は、早くも、もう亞未に集中している。さっきまで案内してくれた女の子に唾を付けていたっていうのに。
楸さんの事だから、心配しなくともさっきの子の電話番号は入手しているはずだろうけど。

「あっ、ごめんなさぁい。残念だけど、あたし、彼氏いるんだよね」

ほら見ろ。亞未にナンパなんて、100年早いわ。
残念そうに「えー」と苦笑する楸さんに、自然と口元が緩む。

「ざまーみろ、バーカ」

楸さんは恨めしげに「うるせぇ」とあたしに釘を刺した。
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