断崖のアイ
「どうやらそれは君のためのものだったようだ。君はこの世界では自他共に認める優秀な魔術師だからね」

 女はそれに口の端を吊り上げて書物を脇に抱えた。何度か一瞥して部屋を出て行くその後ろ姿に、男は小さく手で別れの挨拶を与える。

 そうして、静まりかえった薄暗い室内でくぐもった笑みをこぼす。

「クク……神がどう導くか。欲するのは英雄ではなく恋人だ」


 黄昏が渓谷に並ぶ修道院をオレンジに染めていく──夕闇は人の心の奥底を沸き立たせ、影に潜んでいた諸々は暗闇に紛れて動き出す。

 それらは人の思念なのか、はたまた空間を裂いて現れる何かなのか……男はただ、かすれた笑みをこぼすのみ。
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