断崖のアイ
 その書物は、いつ書かれたものなのか定かではない。しかし、不死というこの上もなく魅力的な事柄に、それを試した者はいなかったのだろうか。

 手から手へ、受け取った者は熟考を重ねた結果に実行を断念したのだろうか。だからこそ、書物の主(あるじ)となる運命にあったのかもしれない。

 導かれる結論は、おおよそ人間が持つにはあまりにも不条理だと感じたのだろう。

 何事にも「逃げ道」というものは、あって然るべきだ。されど、手にした者が隅々まで目を通しても、その逃げ道である「死ぬ方法」が記されていない。

 「人」というものがいかほどの存在なのか、彼らは充分に理解していた。己というものの何たるかを考えれば、それは恐ろしいことだ。

 そんな苦悩が書物のあちこちに落書きのように記されていたが、男はそれらを一つ残らず消し去った。

 かくして書は、明敏(めいびん)な男から浅はかな女の手に渡る。女は力を持つあまり、そのおごりから思慮深くはなかった。

 あの書物が本来、どういった意図で書かれたものかは解らない。まるで、彼のためにあるようなものじゃないかとサイナスは口の端を吊り上げた。

 そのせいだろうか、女は正しく方法を誤り、彼に不死をもたらしてくれるだろうと確実ともいえる予感を抱いていた。




< 75 / 226 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop