空しか、見えない
「嘘までつくの? どうしてなの? 純一さん、おかしい。私たちの結婚の約束は、たったひとつだったはず。私はピアニストだから、指輪なんかいらない。高級な時計もいらない。ピアノが弾けたらいい。でも、嘘だけはつかないでいようって約束したはずだわ」

 純一は、首を横に振る。確かに約束はした。それは、いつも自分のピアノにだけ夢中に見えていた由乃との約束だった。
 自分が何をしたというのだ。浮気をしているわけでもない。ただ中学時代の仲間と一緒に、たった一度海に泳ぎ出したいだけなのだ。反対されなければ、嘘をつくつもりもなかった。

「私、知ってる。それに、あなたの元へは毎週のように、子どもみたいな新聞が届いてる。あそこにいるのが、純一さんなの? 本当に、あれが純一さん? 私の知っているあなたじゃない」

 壁にかかった時計は、イタリア製だ。フレームはなく、文字と針だけが打ち込まれている。それは、純一の父親が面白がって、買ってくれたものだ。
 時刻を表示する文字から文字の間を、針が動いていく。なぜなのか純一は昔から、その針が自分のように思えて仕方がなかった。枠組みを設けられているわけではない自由な空間を、弾き飛ばされそうになりながら、走っている。弾かれたっていいのに、そこまで自由に生きる才能はないような気がしていたのかもしれない。
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