空しか、見えない
 タクシーがマンションの、石畳のエントランスに入り込む。急いで支払いを済ませ、純一はドアの鍵を開ける。
 数分遅れている。厳密に言うと、すでに5分過ぎている。あのとき、もしまゆみに呼び止められなければ、確実に間に合っていたはずだった。でも、あの5分を悔いることは、とても自分にはできない。
 頼む由乃、5分くらい、見逃してくれよ。
 純一は、エレベータの中で、渡された写真を、長財布に挟む。さっきまで耳の奥で響いていたみんなの笑い声やおしゃべりが、急に立ち消えてしまったように感じる。

「ただいま、由乃」

 わざと明るい声で、扉を開けた。
 笑って出迎えてくれ。頼む。由乃に笑って出迎えられたい。
 中から、ショパンの遺作であるノクターンの悲しい旋律が響いていた。音楽室の扉も閉めずに、由乃は弾いているのだろう。
 断末魔のような不協和音が響き、音が止まった。代わりに現れた由乃の修羅のような引きつった表情に、純一は言葉を失った。
 また、彼女をなだめるために、長い夜になりそうだった。
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