空しか、見えない
「由乃、やめなくって、よかったのに。それにさ、頼むから笑って、おかえりって言っくれないかな」

 靴も脱がずにそっと語りかけると、由乃の目に涙が溢れた。まだ20歳なのだ。柔らかくて、音楽の練習しかせずに生きてきた子だった。傷つきやすくて、心の内には激情を隠し持っているような由乃のそばにいてやれるのは、自分しかいないはずだった。

「遠泳は、やめたから。みんなに、そう伝えてきたからさ。少し遅刻しちゃったけど、許してくれなきゃ困るよ」

 白いセーターを着た由乃は、ペルシャ猫のように廊下の真ん中に立ったまま首を傾げ、そこから動かなかった。

「どうして?」

 また、その言葉を呟いた。

「どうしてなの? 純一さん」

「遅刻のことなら、道が混んでいたんだ。たった5分じゃないか」

 純一はさすがに少し苛立ち、腕時計の針をもう一度確認する。
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