空しか、見えない
 一人新聞社で制作する記事を皆に送り終えると、正午を少し回った時刻だった。
 佐千子は実家の電話番号を押した。

「おう、どうした。久しぶりだな」

 父のがらがらした低い声を、とても懐かしく感じた。

「あのね、お父さん、私に少し車の運転を教えてくれない?」

 電話の向こうで、父は鼻で笑っている。

「別に構わないけど、急にどうしたって言うんだ?」

「どうしたんだろうね」

 父に向かってそう呟くと、気持ちが素直になって、柔らかく流れだしていくようだった。

「私ね、これまで何でも、ただずっと待っているだけだったような気がして。車だって免許も持っているくせに、いつも人に乗せてもらってばかりだったでしょう」

 父は黙っている。

「どうかした? もしもし、聞いてる?」

「いや、こんなとき、母さんならなんて言うのかなと思ってさ」

 今度は佐千子がしばらく沈黙してしまった。母なら、茶化して笑わせてくれたような気もする。
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