空しか、見えない
 いよいよ、そんな時期が来た。
 佐千子は図書館の書棚に手をかけるだけで、身震いするような思いになる。プールでは、週に最低でも2日は泳いできたけれど、それでもまだ水への怖れは抜けきっていない。それはもう、心の問題なのかもしれない。
 書棚には、水泳の技術論や、有名なスイマーの書いた自伝のような本、海外の写真集や、海の生態学を綴った自然科学の本などが、ぎっしり並んでいる。見ているだけで涼しい風が吹いてくるようなコーナーのはずなのに、佐千子は足がすくむ。
 その中に1冊、異彩を放った分厚い書籍を見つけた。
 箱に入った布装の本で、背には堂々とした金文字で『私の泳ぎ』と書いてある。
 なぜかその本の佇まいには、心が惹かれた。しばらく立ったまま読み始めたが、佐千子はやがて読書スペースへ移り読み続け、結局、借り帰ってしまった。
 ページをめくるとすぐに、胸に勲章をかけてカメラを見据えた白髪の人の姿があった。長身で姿勢がよいのが、写真からも見てとれた。略歴を見ると、著者は明治生まれとある。
 「平泳」「平泳は手から!」「泳ぎはひとつ」「浮くという言葉の使い方」などの項目が、並んでいる。
 数多ある技術論とは違った、哲学書のようにも見えた。
 会社でその日の原稿を書き終えて、佐千子は『私の泳ぎ』を手に、まゆみのバーに向かった。
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