空しか、見えない
 店内のグランドピアノに、照明があたって輝いている。弾き手はなく、店内にはCDからの心地よい音楽が流れ、佐千子の目の前には、よく磨かれたグラスに注がれた、冷えたドライシェリーのオンザロックが置かれる。
 まゆみが、耳元で教えてくれた。

「OKスタンプは環さんで、千夏さんはNGみたい。〈友達と先約あり、残念!〉、って書いてあったわ。それとフーちゃんと吉本さんからは、返事なしです」

「デート中かな」

 佐千子は本を閉じて脇に置き、同時に運ばれてきたフィッシュ&チップスを指でつまむ。
 泳ぐようになって、真っ先に味覚が変わった。何しろ、よく空腹を覚える。フィッシュ&チップスなどのような塩辛いものが、一段と食べたくなる。けれど、体は太るどころか日に日に引き締まる。
 体だけではなく、心にまとわりついていた澱みも、少しずつ剥がれ落ちていったような気がしている。心が前向きになり、小さなことでくよくよしなくなったと、佐千子は自分で分析し、単純なところがあるんだな、私は、と思う。
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