空しか、見えない
 環は並んで座る。隣り合っているだけで、体温が伝わってくるような距離だった。

「今日ね、千夏は来られないって」

「ふうん、珍しいね」

 環は、そっけなく答える。
 ふたりきりでそうして並んで飲むのは、考えてみたらはじめてだった。佐千子は、膝の上に、借りてきた本を置く。著者の名前は、宮畑虎彦とある。

「この本なんだ。著者は競泳選手で、古式水泳の有名な指導者だったみたい。明治生まれで、平泳ぎのことは、平泳って書いてあるのよ。いろいろ、惹かれる文章があってね、〈泳ぎは人の身体と水とのかかわり合いであるが、水を最もよく感じ取るのは、手であり指である〉とか、〈水泳のうまい人というのは、つねに手・足で水をつかんでいる人である〉とか、水泳の練習の後は、指導者には子どもを自由に遊ばせてやってほしい、と書いてあるんだけど、その理由がね〈自由に遊ぶとき、子どもは強い運動をしていて、決して楽をしてはいない〉とか」

 佐千子は、ページをめくる手をとめる。

「ごめん、環、聞いてる? 一人でぺらぺら話してしまって」

「いや、聞いてるよ。続けてよ」

 優しい声が、耳に響く。
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