空しか、見えない
 手を感じようと佐千子は思う。あの後も、何度も読んだ名著『私の泳ぎ』。そこに書かれていた言葉の一つひとつを、お守りのように感じる。
 人間の身体はそう簡単に沈んだりはしない。手の先まで、足の先まで水を感じて泳ぐ。

「栄誉光来、えーよこーらい」

 環がリズムに合わせて言う声に従う。

「えーよこーらい」

 慌てずに。波が来たら頬で受ける。右、左。
 しだいに息が苦しくなってくる。
 まゆみの方を見る。緊張した横顔で泳ぎ続けている。自分だけがここで音を上げるわけにはいかない。みんな一緒なんだから、大丈夫だと言い聞かせる。
 あとひと掻き、もうひと掻き。

「浮き身用意」

 吉本の声が響く。
 そうだ、そんな救いがあったのを佐千子は思い出す。水の中で身を翻し、仰向けになる。急に身体が軽くなる。天と地がひっくり返ったように、目の前に大きな空が広がってくる。まだら模様の雲が、浮かんでいる。

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