フィレンツェの恋人~L'amore vero~
「帰ろう。大きな声を出したら、お腹へったんだ」


ぐうう、と鳴いたのはハルのお腹だった。


ああ、と力無い声を出して、ハルがお腹をさする。


「ね。本当だよ。ぼくは嘘をつかない」


「もうっ……やだっ」


なんだか無性に可笑しくて、


「そうみたいね。帰りましょう」


ハルの手に手を重ねて、私は笑ってしまった。


「あ。東子さんが笑った」


「だって、可笑しくて」


慎二と言い合った事など、ばかばかしいったらない。


「パプリカ、食べたいんだ。早く帰ろう」


とハルは私を引っ張り起こして、つられたようにくすくす笑う。


「東子。君は、俺よりそんな訳の分からない男を選ぶのか?」


雪の上にべったりと座り込んだまま、慎二が言った。


「俺が美月と別れて、君を選ぶと言ってもか?」


何様のつもりなのだろうか。


「あなたの言っている事の意味が分からないわ」


振り向き、私は慎二を見つめた。


「橘さん」


この男より、何もかもを知り尽くした男より。


謎だらけの、正体不明のハルの方がよっぽど信じられるもの。


だって、ハルは嘘をつかない。


言いたくない、聞かないで、と素性を明かさないけれど、ハルに嘘はない。


ハルがいい、そう思った。


「私はもう、東子ではないのよ」


「……何を言っているんだよ。東子」


そもそも、私は「東子」じゃない。


「あなたの知っている東子は、昨日、居なくなったのよ」


あなたが私を捨てた瞬間に、東子は、消えたのよ。


唖然とする慎二に、告げた。


「私、本当は東子という人間ではないのよ」


ハルが不思議そうな顔で私を見ていたけれど、何も聞いて来なかった。


そして、慎二も。


その日、雪がやむことはなかった。

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