フィレンツェの恋人~L'amore vero~
「やっと掴んだ大チャンスをわたしが駄目にしたくないの。足を引っ張りたくないの。テーブルマナーも分からない女が妻だなんて……」


桔平が恥をかくだけよ、と繭はうつむいてしまった。


繭は夫思いのできた妻だ。


お世辞ではなくて、心からそう思う。


私は繭のように、パートナーをそこまで思うことはできない。


とも思う。


ぽそぽそと繭が続ける。


「やっぱり、テーブルマナーが分かっているのといないのとでは、全然違うと思うの。育ちが出るでしょ、そういうの。それに、施設育ちの人間を見る社会の目って厳しいでしょ」


「そうかしら。だって、施設育ちでも立派な人はたくさんいるわ。桔平だってそうでしょう」


「だから、なのよ」


と自信なさげに、繭が力無く首を振った。


「桔平のような人の妻がテーブルマナーも分からないなんて……まして、大企業の方たちなのよ。気にしないわけがないわ。育ちも、家柄も」


言葉を口にするたびに小さく、また小さくなって話す繭を、これ以上見ている事ができなかった。


私だって、小学校の時はよくいじめられたものだ。


お前、親に捨てられたんだろー、って。


だけど、牧瀬東子になったその日から、いじめにあう事はなくなった。


逆に、ちやほやされるようになった。


だから、繭の言っている事は、痛いほどに分かるところもあるのだ。


「言っておくけれど。私だって、できた人間ではないわ」


裕福な家庭で両親の愛情を一身に受けて育った「東子」という仮面を付けた、実花子なのだ。


「ばれても、責任はとれないわよ。私、女優ではないから。おそらく、ボロを出すわ」


え、と繭が弾かれたように顔を上げる。


「確かに。縁あって今は開業医のひとり娘ではあるけれど。東子の正体は、孤児だもの」


私は、にっこり微笑んだ。


「あの、それじゃあ……」


繭が長いまつ毛をぱさぱささせながら、瞬きを繰り返す。


「いいわ。ただし、これっきりよ、こんな事。もう、二度とごめんだわ」


繭がぱあっと笑顔になった。


「東子!」


私と繭と、桔平。


同じ傷痕がある。


わたしたちは、その傷跡をなめ合い、助け合ってきた。


だからこそ、その痛みを知っている。


だから、今回もそうするだけだ。


「それで。ディナーを兼ねた取材は何時から? 場所は?」


と私はバッグから手帳を取り出して、万年筆を握った。

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