フィレンツェの恋人~L'amore vero~
煌さんがスーツの袖から覗く金色に輝く時計を見て、すっと立ち上がる。


「21時です。お開きかな。長くなってしまったね。申し訳ない」


行きましょう、とわたしに手を伸べた。


「いいえ、こちらこそ」


あれほどまで爆発しそうだった煌さんへの嫌悪感は、すっかり消えていることに、私が一番驚いた。


彼は話し上手でもあったけれど、それ以上に、聞き上手だった。


そして、絵に描いたような、完璧な紳士だった。


その手に手を重ねて、わたしも椅子を立つ。


「有り難うございます」


「いいえ。お礼を言うのは僕の方だ。有り難う、東子さん。久しぶりに楽しかった」


「こちらこそ」


行きましょう、と歩き出した私を、煌さんは呼び止めて、言った。


「あなたは、トゥーランドットのような女性ですね」


「そんなに冷たい女に見えますか?」


「いいえ、そういう意味ではありませんよ」


と困ったように苦笑いする煌さんの肩越しに、さっきまではなかったはずの月が煌々と灯るように浮かんでいる。


「ただ。近づきたいと思っても、近づいてはいけない。そんな気がします」


今夜のアルテミスは綺麗な色をしているのに、どこか寂しそうに見えた。


近くにいるはずのオリオンの姿が見えないからだろうか。


「それは、どういう意味でしょうか」


煌さんは立ち姿も紳士だ、と思う。


「安易に近づいてはいけない気がします。近づいたら、怪我では済まされない。そんな気がしました」


カツ、コツ、と煌さんの靴音が響く。


私の正面に来て、煌さんが言った。


「あなたは人の愛し方が分からないと言いましたね。今はそうなのかもしれないですが、知る日が来ます。誰でも、必ず、一度は」


「そうでしょうか……」


「そうです」


と爽やかすぎる笑顔で煌さんが続けた。


「あの、血も涙もないトゥーランドットでさえ、最後には知ったくらいなのですからね。真実の愛、を」


不思議な、数時間だった。


まるで、オペラの世界にふらふらと迷い込んだような不思議な時間だった。











「男の名は、愛」


帰り道、ぼそりと呟いた私の顔を桔平がひょいと覗き込んで来た。


「何、それ」
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