フィレンツェの恋人~L'amore vero~
足音を立てないようにリビングに向かい覗くと、


「……あれ」


てっきり特等席であるソファーに座っているものだと思っていたのに、そこにハルの姿はなかった。


煌々と蛍光灯の明りがついているだけで、水を打ったように静まり返っているだけのリビングは単なる空間でしかなかった。


寝室かしら。


と思い向かおうとした時、キッチンの中から、ガサ、とゴキブリでも走ったような物音が聞こえた。


そして、今にも泣き出しそうなひょろひょろとした、


「Perche……Questo e cio che mangia……(これは、食べ物なのか……)」


ハルの声も。


「……ハル?」


リビングから対面式のキッチンへ声を掛けた次の瞬間。


「東子さんっ!」


「ぎっ! ……ハ、ル……」


ぬうっ、とハルが姿を現した。


まるで、びっくり箱から飛び出した人形のように。


確かに、ハルは外見は悪くないし、素敵だと思う。


「東子さん……会いたかったよ……」


だけども。


「どうしたの……ハル」


正直な話、どん引きしてしまうほど、ハルはボロボロだった。


ハルを気の毒だと思った。


真っ黒で艶々と輝いているはずの髪の毛は光沢感を失い、嵐の中を走って来た後のようにぼさぼさに乱れきっている。


ハルがこよなくお気に入りのスウェットも、どことなく、何日も洗濯をしていないようにくたくたに草臥れて見えた。


おかしい。


夕方マンションを出た時より、やつれて見えるのはなぜだろうか。


ぎょっとして見ていると、ハルがカッと目を開いた。


「助けて! 東子さん! サエキじゃ話にならないんだ!」


とエキゾチックな目を充血させ、握りしめていた携帯電話をシンクの上に投げ出して、力尽きたように崩れ落ちて行った。


「僕は、もう……何も分からない」


しかも、半分、白目をむきながら。


「ちょっと……ハル!」


急いでキッチンに回り込んで、


「ひ……!」


私は床に荷物と肉まんの袋を落とした。


キイヤアアアアア! 、と叫びそうになったけれど、なんとか必死に我慢した。


キッチンの床にはうずくまるようにハルが倒れていて。


ハルの周り一面には、食材が散乱していた。


肉も魚も野菜もフルーツも、卵も調味料も。


冷蔵庫はすっかり空っぽで、ドアは開け放たれていた。


「どうしてこんな事をしたの! ハル!」


私は久しぶりに興奮した。


大人気ないと分かってはいても、コントロールがきかなかった。
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