フィレンツェの恋人~L'amore vero~
「彼女のように何が残酷な事でもしたの? 東子さん」


ソファーの横で立ち止まり、私は笑い続けるハルを睨んだ。


「していないわ」


むっとした。


「ああ、怒らないで。冗談だよ、冗談。美人が台無しだよ」


ハルは言い、機嫌をとるように手招きをした。


「仲直りをしよう。ぼくの隣に座って」


「別にケンカしてないじゃない。それに、怒っていないわ」


むっとしながらハルの隣に座って、


「いやだ、ハル」


私は吹き出して笑った。


きょとん、とした目でハルが私を見つめる。


まるで、子犬みたいな瞳で。


「どうしたの? むっとしていたくせに、急に笑ったりして」


「だって」


ぼさぼさに乱れきったハルの髪の毛に、春菊の切れ端が絡みついていた。


どれだけ、悩んだのかしら。


「動かないで。髪の毛に“草”がついているの」


私はクスクス笑いながら、ハルの頭に右手を伸ばした。


春菊の切れ端をつまんだ瞬間、


「……odore!(臭い)」


突然、ハルが声を上げて、私の右手首を噛み付くように掴んだ。


「……ハル?」


何が起きたのか、分からなかった。


ハルがなぜ豹変したのか、分からなかった。


目はつり上がり、息づかいが荒い。


「Jean Paul Gaultier……Le Male」


ギシ、と不快な音がした。


奥歯が浮くような不快音に、首筋がざわりとした。


ギシ。


それは、ハルの歯ぎしりの音だった。


「好きじゃない。この香り。大嫌いだ」


ぼそぼそと言い、ハルは私の手首を乱暴に引っ張った。


そして、私の手をたった一度だけ、スン、と嗅いだ。


「臭い……頭痛がする」


まるで、警察犬のような鋭い目つきをしている。


その野蛮な目が恐ろしくて、私は動く事が出来なかった。
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