フィレンツェの恋人~L'amore vero~
この際、そう思ったとたんに、心と体を支配していた「恐怖」が嘘のようにするすると解けていった。


いいわ、殺されても。


婚約者には捨てられた、信頼していた同僚には裏切られ、何を信じればいいのかも分からずに生きて行くより、マシだと思った。


私はふらりふらりと歩き出していた。


でも、どうせやるなら、ひと思いにやってほしいものだ。


極力、あまり苦しまないように、一気に。


今にもしぼんでしまいそうなポリバケツの陰を覗き込んで見ると、案の定、それは人間だった。


でも、その人は両膝を抱きしめるようにそこに座って、膝に顔を埋めたまま微動だにしない。


頭、肩、背中に、薄く雪が積もっている。


「あなた、殺人未遂の犯人?」


私が聞くと、その人の肩が微かにぴくりと反応を示した。


でも、待てど暮らせど、返事はない。


「凶器、持ってる?」


見てみたけれど、膝を抱えるその両手に刃物らしき物は握られていない。


「なんだ……違うの」


少しばかりの安堵感と、大きな期待外れが、私の中で混同した。


「こんな所にいたら風邪引くわよ。いえ、凍死だわ。帰った方がいいと思うけど」


どこの誰か分からないけれど、こんな湿った所で何をしているのかも分からないけれど。


「親御さん、心配しているんじゃないかしら」


見るところによると、若い男だと思った。


蹲るその体を包んでいる衣は明らかに学生服で、雪に濡れた髪の毛の隙間から、左耳に輝くピアスが見えたのだ。


ここらでは見かけた事のない高校の制服だった。


「ちょっと、君、聞いてるの? 返事くらいしなさいよ。本当に風邪ひくわよ」




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