フィレンツェの恋人~L'amore vero~
「いや。今日はサエキじゃないんだ。でも、言いたくない。聞かないで」


お決まりの台詞になぜかほっとした。


良かった。


いつものハルだわ。


私はふふっと笑った。


「聞かないわ。ただ、気を付けてね。この辺りは、日中、交通量が多いから」


「大丈夫さ」


にっ、と笑って、ハルは手に持っていた黒縁眼鏡を掛けた。


「こうすれば、何も怖くないからね」


へんな子。


「そうだ、東子さん。どこに行けばニクマンを買えるのかな。また食べたいんだ」


ハルはコンビニにも行った事がないのかしら。


やっぱり、おかしな子だわ。


「帰りに買って来てあげるわ。待っていて」


「そうか! 楽しみだ! ありがとう、ぼくの東子さん!」


「ええ。じゃあ、行って来ます」


私はふふっと笑って、マンションをあとにした。


本当に、へんな子。


本当に……。










午前中いっぱい降り続いた強めの雨が小降りになったのは、正午までもう間もなくの頃だった。


休み明けの会社は年末よりも慌ただしい気がする。


受付カウンターの前を、さっきも通った社員がまた通って行った。


午前中は何件かの取引先の営業マンが新年のあいさつに来たけれど、受付は暇だった。


「平賀さん」


休み明けの仕事に身が入らないのはなぜなのだろう。


「はい」


「お昼休み、お先にどうぞ」


毎年の事ではあるけれど、今日は特に身が入らない。


私たちの前を行き交う社員たちもどこかけだるそうに見える。


「いいんですか?」


「ええ。食欲がないの」


そうなんですか、と平賀彰子は長いまつ毛をぱちぱちさせたあと、にっこり微笑んだ。


「じゃあ、そうさせてもらいます」


「ええ」


全然、まったく食欲がない。
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