フィレンツェの恋人~L'amore vero~
頭の中を支配しているのは、今朝方のあの光景だった。


特に、ハルの不気味な横顔が目の奥に焼き付いて離れない。


「どうしたんですか? らしくないですね。寝不足ですか?」


平賀彰子が私の顔を覗き込んで来て、ようやく我に返った。


「え?」


うーん、と平賀彰子が唸る。


「やっぱり変。いつも隙がなくてぴしっとしてる牧瀬さんが上の空だなんて」


「そう? 上の空だったの? 私」


「そうですよ! 朝からずーっと、溜息ばかり」


溜息をついていたことすら自覚していない私は、重症かもしれない。


「ごめんなさい。朝からいろいろあって」


「あー、なんとなく分かります。私も寝坊しちゃったんで。完全に正月ぼけですね」


ひひ、とおちゃらける平賀彰子をうらやましいと思った。


「私はそれとまた違うけれどね」


この子はこれまで自由にのびのびと生きてきたんだろうな、なんて。


「私はいつもより起きるのが早すぎたの」


と私は苦笑いして、正面に向き直った。


雨はすっかり上がっていた。


正午になったらしい。


開いたエレベーターから、それぞれの課のネームプレートを下げた社員たちがぞろぞろとあふれ出て来た。


「何食べる? とんかつ?」


「無理。正月の不殺生で胃が」


「じゃ、蕎麦で軽くすませるか」


営業部の社員たちが通り過ぎて行く。


「小嶺チーフ! お昼一緒にしませんか?」


「お、いいわね。どこ行こうか。おごってあげる」


「ラッキー! さすがチーフ!」


「今日だけよ」


華穂が私に手をひらひらと振って、外へ出て行った。


年が明けたといっても、おめでたいのは結局三が日だけだ。


仕事が始まればまた日常が戻ってくる。


ランチへ出る社員たちで、フロアーも出入り口も一気ににぎやかになった。


「じゃあ、お先にお昼行かせてもらいますね」


と、平賀彰子が椅子を立った。
< 202 / 415 >

この作品をシェア

pagetop