フィレンツェの恋人~L'amore vero~
今日中にやらなければならない事があると言っていたハルに、一言、桔平が会いに来る事を伝えておこうと思った。


『あ、やっぱり突然じゃ失礼かな』


「違うの、そういうことじゃないわ。ただ、今夜は立て込んでいるらしくて」


『なら、日を改めようか』


と気使ってきた桔平に「大丈夫よ」と返事をしながら、寝室のドアをノックした。


「ハル。ちょっといい?」


けれど、声は愚か、物音ひとつ返って来ない。


もう一度、ノックしてみる。


「ハル?」


今度はさっきより倍強い力加減で。


「ハル?」


でも、やっぱり返事はない。


水を打ったような深い静寂に包まれる。


『どうした? 居ないのか、ハルくん』


空間がやけに静か過ぎるためなのか、桔平の声が携帯電話から漏れ出して、やけに鮮明なものに思えた。


「……居るわ。ハルは夜出歩いたりしない子だもの」


一切応答の無い、静寂しか返って来ない寝室のドアを見つめながら、私は小首を傾げた。


眠っているのかしら。


「ハル? 入るわよ」


ドアノブを左に捻る。


ドアを開けて、


「……ハル?」


私は言葉を失いながら、暗い寝室内をぐるりと一周見渡した。


まるで、出口のない空っぽの洞窟のような空間に、胸騒ぎを覚えた。


唐突に、強烈な不安と孤独感が、入り口で立ちすくむ私に一丸となって襲い掛かって来た。


そこに、ハルの姿はなかった。


そもそも、人の気配というものさえないのだ。


さっきまで不気味な蛍光色の光を放っていたはずのパソコンは無く、ハルの携帯電話もなくなっていて。


ただのっぺりとした真っ暗で、無機質な空間になっていた。


『東子?』


耳の奥で桔平の声がして、ハッと現実に引き戻される。


「えっ」


『えっ、じゃなくて。どうかしたのか?』


どうしたも、こうも。


私が聞きたい。


「……ないのよ」


ハルが居ない。


『え? 何だって? 聞こえないよ、もう一度』


もう一度、ブラックホールのような空間をぐるりと見渡した。


「居ないのよ……」


携帯電話を耳から離す。


それを握りしめて、私はあらゆる箇所を探し回った。

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