フィレンツェの恋人~L'amore vero~
共同玄関を飛び出すと、ルームウエアの繊維を突き抜けて、寒さが何千本、何億本もの針の束となってズキズキ肌に突き刺さった。


外は晴れていた。


降り続いていた雨はもうすっかり上がり切り、いくつか星が輝いている。


肌に刺さる冷気に、雪の気配が溶け込んでいた。


「ハル!」


私の悲鳴を、冬の静寂が吸い取っていった。


どこか遠くで、救急車のサイレンが響いている。


どこへ行ったの、ハル。


左右前後、ぐるぐる回転しながら幾度もハルを呼び続けた。


濡れたままの髪の毛が、夜の凍てつく冷たい風で凶器に変わりそうだ。


どっちへ行ったの、ハル。


どこへ、行ったの。


なぜ、何も言わずに居なくなるの。


ハル。


あなたも、ママのように、私をひとりぼっちにするの?


「ハル!」


私をひとりにしないと言ったくせに。


東子さんにはぼくが居るって……。


「言ったじゃないの……」


ハル。


私は、どうすればいいの。


あなたがどこへ行ったのか、私には見当も付かないのよ。


「ハル!」


私は、あなたの事を、知らな過ぎる。


だって、そうでしょう。


あなたは教えてくれないもの。


こんなにも知りたいのに、知る事ができないんだもの。


「東子?」


その声にハッとして振り向くと、桔平だった。


「そんな薄着で」


ルームウエアに裸足の私を見るや否や、桔平がぎょっとした顔になった。


「ばかじゃないのか。何で裸足なんだよ」


取材用の大きなビジネスバッグをアスファルトに投げ出して、着ていたコートを脱ぐと、


「震えてるじゃないか! 風邪引くぞ」


と、桔平は躊躇なくそれを私に羽織らせた。


「どうした? 何があった? 電話で話してる途中で、急に様子がおかしくなったから心配してたんだ」


中に入ろう、と私の肩を抱いて踵を返した桔平を、


「嫌よ!」


私は思いっきり振り払った。


「離して!」


ぱさりと儚い音を立てて、アスファルトにコートが落ちる。
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