フィレンツェの恋人~L'amore vero~
「もし、ぼくがここを出て行く日が来るなら、それは、東子さんがぼくを必要としなくなった時だ。すなわち、東子さんがぼくに出て行く事を望んだ時だよ」


綿毛のようにやわらかな微笑みを浮かべながら、ハルは続けた。


「東子さんが必要としてくれる限り、ぼくは居なくなったりしない」


一緒に居るよ、そう添えて、ハルは私の手を取り、歩き出した。


「ぼくは、嘘を言わない」














部屋に入るなり、ハルは全ての明りを消してソファーに座るように言った。


言われたようにソファーに座り、私たちは暗闇の中で肉まんを食べた。


真っ暗で、だけど、月明かりが差し込むとても静かなリビングで。


それから、やっぱりいつものように一枚の毛布を分け合い、身を寄せ合って眠る事にした。


私が強い微睡の中に迷い込んだ時にはもう、日付が変わっていた。


「東子さん」


ハルがそっと手を繋いで来た。


「何?」


だから、私も握り返した。


「柏木さんは、ぼくたちを引き離そうとするよ。いずれ、必ずね」


呟くように言って、窓の外を遠い目で見つめるその横顔に、私は言った。


「なら、戦うわ、私。桔平と」


「えっ?」


おどけた顔のハルと目が合って、私はクスクス笑った。


「戦う。大切な幼なじみであろうと、ね」


「じゃあ、ぼくもだ。ぼくも、東子さんの大切な幼なじみと戦おう」


ハルもつられたように笑った。


しばらく静かに笑い合ったのち、私はハルの肩に頭をもたれさせた。


「ハル。また、あの話を聞かせて」


「あの話?」


聞きながら、ハルが私の頭にコツンと頭を乗せて来た。


「アルテミスとオリオンの、悲しい恋の伝説」


「ああ、いいよ」


ハルの声は、なぜ、こんなにも心地良いのだろう。


ミステリアスで、エキゾチックで、甘ったるくて。


「見て。東子さん」


ハルの右手がすうっと伸びて、窓の外を指さす。


「月の女神、アルテミスは」
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