フィレンツェの恋人~L'amore vero~
『……heaven.』


そういえば、あれは一体、どんな意味だったのだろう。


ヘヴン。


彼は、滅多に英語を使わない人だった。


だけど、あの日、あの時ばかりはフランス語でもなければ日本語でもなく、わざわざ英語を使った。


私が最も苦手とする、英語を。


ヘヴン。


天国へ行こう、とか、天国に行きたい、とか。


そんな意外と単純な意味だったのかもしれないし、もしくは、ものすごく深い意味が込められていたのかも分からない。


でも、今になって思い返してみると、後者だったのではないかと思えて仕方がない。


そんな彼とふたりきりで出掛けた最後の場所は、オペラ・ガルニエだった。


「席は取ってあるんだ。さあ、行こう」


と、寂しげに微笑んだ彼の横顔は、今でも忘れられない。


ファザードを潜り抜け場内に入ると、中央には大理石の階段。


絵画や彫刻を展示した、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間よりも豪華な大ロビー、グラン・フォワイエ。


世界中のダイヤモンドを全てかき集めてつるしたような巨大シャンデリアの下を、彼に手引かれてうっとりしながら歩いた。


会場に入ると、その美しさと雅やかさに圧巻だった。


「……すごい」


天井はシャガールの絵。


そこから垂れ下がるのは、クリスタルの巨大シャンデリア。


見下ろせば5層に分かれた深紅と金色の華やかな客席。


「この席とるのけっこう苦労したんだ」


そこはまるで、私と彼だけのプライベート空間のように完全に仕切られていて、赤いビロードで覆われたボックス席。


「常に人気だからね。ファントムの席は」


「……え? ファントム?」


そこはオペラ座の怪人、ファントムが常に指定とする事を要求した3階、5番のボックス席で。


けれど、私たちが鑑賞したオペラは、トゥーランドット。


「華穂」


オペラはもう、ラストを迎えているのに。


「立って。君に、言っておきたい事があるんだ」


彼は突然椅子を立ち、私の手を掴んだ。


「……ええ。何?」


私が椅子を立つと、彼はトゥーランドットのラストシーンをバックに、囁くようなどこか寂しそうな声で言った。
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