フィレンツェの恋人~L'amore vero~
サエキ、ジロウ……。


あっ、と声を漏らしそうになり、とっさに口元を手でふさいだ。


――ぼくの親友は渋いよ


私は、昨晩のハルの妙な発言を思い起こしていた。


――六十五歳なんだ。名前は、サエキジロウ


その事を思い出していた。


口元を押えたまま、モニターに切り替える。


やっぱり、声を漏らしそうになった。


突然、モニター画面を占領したのは、真っ黒なハットを被った年老いた渋い男の顔だった。


『昨晩から、こちらでご厄介になっている者が居るかと思うのですが』


しわしわに目尻に、口元に、大きな目。


八の字を描く、白い髭。


『居りますでしょうか』


と、サエキジロウは、本当に老人だった。


昨晩、ハルの言った事が本当なら、十七歳の親友が今ここを訪ねて来た事になる。


『東子様。牧瀬、東子様』


まるで、部屋の中を覗くように、サエキジロウは大粒の瞳をギョロつかせ、モニターを見つめて来る。


「あ……のう……ハル、の事でしょうか」


私が問いかけると、サエキジロウは緊迫感あふれる表情をひゅるりと緩ませ、安堵した様子で一歩後退したようだった。


『ええ。と言う事は、確かにこちらにいらっしゃるのですね』


「はい。ハルはここに」


『ああ、安心致しました』


なんて、丁寧な言葉を使う人なのだろう。


そして、やわらかな口調だ。


サエキジロウは清潔感たっぷりの真っ白なワイシャツに、ネクタイを締めて、


『実はわたくし、昨晩にお電話を戴きまして』


真っ黒な光沢のある背広に、濃紺色のAラインコート姿だった。


そして、つばの広い真っ黒なハットをすっと取り、微笑んだ。


『約束のお荷物をお届けに上がりました』
< 65 / 415 >

この作品をシェア

pagetop