フィレンツェの恋人~L'amore vero~
私は見ていないふりをした。


それが、二冊のパスポートだったから。


「で、父さんたちはどうしてる? 何か言われたかい?」


「いいえ、特に何も」


「そう。とにかく頼んだよ。ぼくはしばらく帰らない」


ハルが私を見てにっこり微笑み、


「東子さんの世話になる。ここに居るから」


と視線をサエキジロウに戻した。


サエキジロウがこくりと頷いた。


「承知致しました。しかし、いずれは――」


「分かってるよ」


サエキジロウの言葉を遮り、ハルは早口で続けた。


「ぼくはバカじゃない。逃げたりもしない。きちんと答えは出す。そう、伝えてくれ。父さんに」


答え?


私は様子をうかがうように小首を傾げながら、ハルを見つめた。


ドキリとした。


ハルがまた、野蛮な目をしていたから。


「そして、サエキ。君に迷惑をかけるような事だけはしないから。約束する」


安心して、そう言った時のハルはもう野蛮な目はしていなかった。


青い空をふわふわ漂う雲のような、穏やかで優しさに満ちた瞳に変わっていた。


「じゃあ、サエキ、道中気を付けて。また連絡を入れる」


「はい。それでは」


サエキジロウは真っ黒なハットを胸元に当て、ジェントルマンのような仕草の会釈をした。


「東子さん、寝室を借りるね」


「え、ええ、どうぞ」


ありがとう、そう言ってさっさと寝室へ入って行くハルの背中を見つめながら、私は茫然と立ち尽くした。


ハルは、何者なの……。


バタン、と寝室のドアが閉まる。


「東子様」


呼ばれてハッとした。


そして、このサエキジロウという老人も、何者なの……。


「……はい」


サエキジロウは背中をしゃんと正して、真っ直ぐ、わたしに言った。
< 69 / 415 >

この作品をシェア

pagetop