フィレンツェの恋人~L'amore vero~
「どうか、宜しくお願い致します」


「はあ」


「では」


サエキジロウは黒いハットを白髪の上に乗せ一礼すると、まるで空気のように出て行った。


パタリ……、とドアが閉まる。


「……あっ、あのっ」


連れて帰ろう、とか、そういうのはないの?


いいの?


こんな良く知りもしない女の部屋に、ハルを残しても。


私は急いでドアを開けて、


「サエキさん! 待って下さい!」


素足のままフロアーに飛び出した。


足の裏に冷たさが突き刺さる。


コツ、と革靴が音を立てて、


「いかがなさいましたか?」


サエキジロウは振り向き、片手でハットを取った。


「あの、教えていただけませんか」


「は……」


サエキジロウは、私の無防備な足元を見て、ぎょっとした。


「東子様、足が」


「あなたたちは何処に住んでいるの? ハルはどこから来たの? なぜ、昨晩、あの寒空の下にひとりで」


「東子様」


サエキジロウは、困った顔で肩をすくめた。


「それは、お答えできません」


「なぜですか?」


「あの方とのお約束だからでございます。申し訳ございません」


「ハル、との?」


「ええ。あの方とのお約束は絶対、という決まりですので」


と、サエキジロウは言った。
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