フィレンツェの恋人~L'amore vero~
「え?」


実はね、とハルはぼそぼそと言った。


「こういう場所に来たのも、今日が初めてなんだ」


そう言って背中を丸めて小さくなったハルに、私は何も言えなかった。


ハルはとても寂しそうな目をしていた。


「ぼくの事、変なやつだと思ってるでしょ」


「ええ。昨晩からずっとそう思っているわ」


「やっぱり。よく、そう言われるよ」


苦笑いしながら、ハルは手にしていたパプリカを元の位置へ戻す。


「気を悪くした?」


私が顔を覗き込むと、ハルはふるふると首を振りながら小さく笑った。


「いいんだ。仕方ない事だからね。現にパプリカという野菜すら知らなかったんだから」


「ハルは、ご両親とこういう場所に来て買い物をした事はないの?」


「ないよ。ほとんど家から出させてもらえなかったからね。学校と習い事以外は家に居た」


ハルはきっと、厳格なご両親に育てられたのだろうとその時は思ったし、


「そう。なら、仕方のない事ね。気にする事ないわ」


それくらいにしか思わなかった。


だから、なぜ、ハルが寂しそうにしているのかなんて深く考えてはいなかった。


突然、だった。


「ねえ、東子さん、聞いてくれる?」


突然、せきを切ったかのようにハルはべらべらと話し始めた。


「ぼくの未来はおそらく、もう、決められてしまっているんじゃないかと思うんだ。父と母にね。だから、たぶん、ぼくは二人のために生きて行かなければならない人間なんだと思う」


ぼくの人生なのに、とハルはパプリカを見つめながら続ける。


「生まれた時から、自由を感じた事なんて一度だって無いよ」


「……どういう事?」


「ぼくが歩む道にはいつも真っ赤なカーペットが敷かれていたんだ。まるで、道しるべのようにね」


覗き込んだ時のハルの目は、輝きを失った宝石のように真っ暗だった。


つまらなそうで、寂しそうで、胸をわしづかみされた気分になる。


「衣類も食事も勉強も、友人ですら。全部。何もかも決められていたからね。親の言いなりにだけはなりたくないんだけど」


と、ハルが言葉を飲み込む。
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