フィレンツェの恋人~L'amore vero~
百貨店を出ると、上空は曇天の雲が広がり始めていて、ちらちらと小雪が舞っていた。


「本降りになりそうだね」


ハルが空を見上げる。


みるみるうちに西の空が暗くなり、分厚い灰色の雲が上空に広がっていく。


綿の塊のような雪がぼたりぼたりと落ちて来て、間もなく、辺り一面雪景色になった。


「ねえ、ハル。タクシー使う? この状況で歩くのは大変だもの」


一寸先は闇、と、大げさに言おうか。


それくらい振りかたは激しく、数メートル先が見えないほど辺りは真っ白だ。


深い濃霧の森の中に迷い込んでしまったような気分だ。


「大雪になるね、きっと」


はー、とハルが白い息を長く吐き出す。


「本当ね。すごい雪だわ」


ただ突っ立っているだけなのに、ほんの数秒という短い間にも頭や肩に降り積もって行く雪。


私の頭に積もった雪を、ハルが払い落とす。


「うわ……東子さんが雪に埋もれる。どうしよう」


困るよ、とハルが本当に困った顔をするから、つい笑ってしまった。


「あ、笑いごとじゃないのに」


「ね、だから帰りはタクシーを使いましょう」


「うん。そうしよう」


困るからね、とハルが続けた。


「本当に困るからね。この雪に東子さんがうもれたりしたら」


ばかね、と笑い飛ばした時、


「そうだ。いい事を思いついた」


ハルが着ていたダウンジャケットのボタンをバリバリと一気に開いて、


「入って、東子さん」


左右に広げた。


「えっ」


「入って。少しはマシでしょう。タクシーまでどうぞ」


ダウンジャケットを広げるハルは、真っ黒な羽根を羽ばたかせるエキゾチックな鳥みたいに見える。
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