みだりな逢瀬-お仕事の刹那-


残念ながらパワーウィンドウが開いてすぐ聞こえたその声に、私の意思はあっさり阻まれてしまった。


諦めて足を止めれば、はぁと大きな溜め息を吐くくらいは許されるだろう。


運転席のドアを開けて車を降りるその人に、脱力しながらも静かに振り向く。


気まずさを孕んで対峙したものの、スーツを幾分着崩した社長の顔はいつもと変わらなかった。



「社長もご自分で運転なさってまで、此方へ私用がございましたか?」

「ああ、高みの見物に。まあ、遅かったけどね」

「見物するほどのものはございません。
わざわざお越しになるなんて、それこそ野暮ではございませんか?」

ニコリと笑って言えば、鼻で笑うから本当にこの男も性格が悪い。……人のことは言えないが。


「野暮?」と、そこで初めて彼はピクリと眉を動かした。


「ええ、そうではありませんか?
社に対する不利益を働くくらいならば、私は潔く会社を辞めます。その覚悟の上での私用について探るのは、僭越ながら無粋だと申しているのです。
ご多忙の社長の貴重なお時間を取らせるほど、愚かな行動はいたしません」

これでも会社自体は嫌いじゃないし、秘書としての分別は弁えているつもりだ。


薄墨色の瞳を真っ直ぐ見つめていると、フッと口角を小さく上げて笑われる。


「ホントにそう思ってる?」

「女に二言はございません。社長の真意は図りかねますが」


ほんの数時間前、本性を見せたのはどこの誰だ?と、疑り深い声色に苛立って返す。


「朱祢に言われたくない」


心地よい低いその声が、静かな辺りに響く。……こんな時に、名前で呼ばないで欲しい。


一刻も早く、頭の中を整理しなければ。今日はあまりに色んなことが起こりすぎているのに。


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