みだりな逢瀬-お仕事の刹那-
これ以上、何かを受け止めるのは無理だ。この男のことで一杯な心を、もうかき乱されたくない。
「……そうですね。大変申し訳ございません。
では、私はこれで失礼させて頂き、」
小さく頭を下げて顔を上げると、鈍い照明の下で社長の薄墨色の目と目が合う。
たとえ不自然でもパッと視線を逸らし、すぐに向き直った。一刻も早く帰ろうと、足を踏み出す筈だったのに。
「イチイチ苛立たせるのが上手いよね」
パシリと手首を強く掴まれて、その一歩は宙を舞うだけに終わった。
さらに夜空と溶け合うような声色が、疲弊しきった私の心にまた突き刺さる。
「何か言わないの?」
「仰るとおりですから」
彼の方へ振り向くことなく、フッと小さく自嘲した。今の心境では、とても彼の所望する切り返しは浮かばない。
「じゃあ、どうして此処に来た?」
「……約束を破るのは大嫌いです」
「俺の指示は破ったのに」
「あれは叱咤……いえ、ご指導ではありませんか?」
「そうだね」と、今度は屈託のない声を背中へ掛けてくるから、私は目を瞑った。
「もちろん社長に迷惑をお掛けするつもりはありませんでした。
現にこうして、何事もなく終えたではありませんか」
本性を晒せば言いたくなる。だから、暗に伝えたかった。――これ以上、深く関わらないで欲しいと。
「朱祢」
「何でしょう?」と平静を装いながらも、呼び声で身構えている私がいる。
「――行こうか」
この近辺特有の静けさは、沈黙を助長していた。社長のひと言に、今度はビクリと肩を揺らしてしまう。
――いつものホテルへ行ってセックスしよう、というお誘いだとすぐに察したから。
「……今日はお断り申し上げます」
「前に言ったよね?」
“朱祢は断れる立場じゃないって”と言うが如く、咎める社長の声に心が痛んだ。