みだりな逢瀬-お仕事の刹那-
彼の頑固さはよく知っている。だが今日の様子で、さすがに怒る気になれなかった。
まったく……と溜め息を吐きながら、先に折れたのは私の方だ。
貴重品類はロッカーに入れて施錠してあるし、彼の方は同僚が何とかするから大丈夫なはず。
だが、あいにく私の場合はそうもいかない。秘書の持ち物には機密類もある。
置きっ放しのファイル類も片づけなければまずい。つまり押し問答をする時間がないのだ。
「ほら、いい加減離れて!」
未だにしなだれかかっているデカわんこの弁慶の泣きどころを、容赦なくハイヒールでひと蹴り。
加減の知らないそれは相当痛かったはずだが、無表情とは負けず劣らずの意地っ張りだ。
こうして私が優しさをあっさりと失った頃、彼はするりと腕の力を解いた。
だが離れていく刹那、楓が耳元でひっそりと囁いた事実に私は目を見張る。
「……う、そ」
「ほんとだよ」と言う楓の弱々しい声を聞きながら、何も言葉が見つからない。
静かにやり取りを見ていた居合わせた人たちの表情は、まさに希有なもの。
それにさえ気遣う余裕のない私は、楓の腕に捕まっているのがやっとだった。