みだりな逢瀬-お仕事の刹那-
「うわっ、何すんのよ!
こういう時は“ありがとう”が定説だっての」
鈍い痛みの残る額を撫でると、私にだけ手加減をしない男を鋭く睨んだ。
「朱祢に定説なんか通用しないじゃん」
「は?私は我が道を行くだけよ。それが何か?」
「どこまでもメンドイ女」
「そっくりそのまま返してあげる」
表面上では口を尖らせて怒りながらも、落ち着きを取り戻した彼に安堵する。
そうして大通りへさしかかると、手前の交差点の歩行者用信号は赤を示していた。
立ち止まって車の往来を見つめるこの時間は、不思議と虚しさを誘うものだ。
「……そっちこそ良かったの?」
「何がー?」
隣に立つ楓の問いが何を指していたかピンと来たものの、笑ってはぐらかす。
「よく分かんねえけど、泣くくらい好きなんだろ?」
「……ふっ、あり得ない」
私は横を見ると、鼻で笑いながら一蹴した。小馬鹿にしたような態度にも怯まないのは、同じ性質ゆえだろう。
「朱祢の涙は貴重じゃなかった?」
いや違った。……心から信ちゃんを愛する楓だから、不実な感情を見抜かれたのかとそこで気づく。
「あれってどう見ても、しゃ」
「――私が、必要じゃないから」
「は?なに言って」
眉根を寄せた彼から顔を背けた。――これ以上はお願いだから聞かないでと。
「あっ、青になった!ほら早く行くよ。
仕事が待ってるんだから!信ちゃんのためにも働くよー!」
隣から感じる鋭い視線を勢いでスルーし、私は足早に私鉄の最寄り駅まで向かう。
ここで彼の琴線に触れるのは最低だと分かっていても、あの時は他へ逃げる術が見つからなかった。
快速電車に揺られて会社を目指す間、ずっと無言だった私たち。
気を抜くと脳裏を過ぎるのが、社長の悲しげな表情だった。その幻想に捕らわれる度、胸はギュッと締めつけられる。
いっそのこと、どんな傷を負っても痛みを感じない女でいられたら良いのに。
そう願う度、彼の未来には偽物は要らないのにと失笑するしかなかった……。