みだりな逢瀬-お仕事の刹那-
「えっ?」
どこからともなく聞こえた声に驚き、立ち上がった私は辺りをキョロキョロする。
しかし、それもほんの一瞬。広大な敷地を悠然と歩いて来る人の姿を捉えたからだ。
10メートルほどあった距離は、こちらへ近づいて来る人によって徐々に詰まる。
「な、ぜ」
「シカゴ支社が出来たから、“敢えて”支社長兼務したってワケ。
それより朱祢にとってはもう、過去のオトコになってる?」
そのあいだ瞬きさえも忘れて凝視していた私の前に立つと、フッと口角を上げて穏やかに笑う人。
ほんの少し髪が伸びているものの、薄墨色の瞳も美麗な顔立ちも変わっていない。
ブラックのスーツをスマートに着こなした嫌味な男は、残酷なほどに私の心を掴んで止まない。
じわり、じわり、と涙が目に溜まり始めた刹那、ムスクの香りと力強い腕で引き寄せられていた。
「わ、たし……」
「離れて苦しむより、乗り越えたいんだ。……この1年、朱祢を手放したことを心の底から後悔してた。
朱祢がいないと自分らしく生きられない。この責任取ってよ」
「……で、もっ、」
「一緒に前に進もう。今度は大丈夫だから」
「っ、」
離れるのは今しかない。この胸から逃れなければ、と何度も言い聞かせても心は頑なに拒否をする。