みだりな逢瀬-お仕事の刹那-
それに驚いている隙をついて、彼の手中にあるメガネを奪い取ろうとした。
「甘いね」
「っ、」
しかし、ひょいとかわしてスーツの内ポケットへ沈めた男に怒りが増幅して、さらに鋭く睨みを利かせる私。
手を伸ばせばすぐに届く距離でも、さすがにキライな男の服を弄(まさぐ)る趣味はない。
くすくすと軽快に笑う人物に怒りが込み上げ、それがまた握った掌に爪を喰い込ませる原因だ。
「朱祢さ、…そんなにコレ欲しい?」
「あ、たりまえじゃないですか…!」
ジャケットの内ポケットへと、あえてメガネを収めた性格の悪い彼。怒気の含んだ声色だろうが、もう構う余裕は残っていない。
平常心を失った状態では、じわり、じわり、詰められていた距離に到底気づく筈もなかった。
「――それなら、今後も続ける?」
その言葉に視線を合わせれば、性質の悪さを窺わせる笑みを浮かべた社長にゴクリと息を呑んだ。
「…ええ、仕事は仕事ですから」
これが新入社員時代なら、今日限りで辞める!と間違いなく啖呵を切ったけど。
それなりに国内外の経済事情を知った今は、苦労して得たこの立場を棒に振るのが惜しい。
“社長とのコトは今日限りの過ちだった”と諦める方が、非常に残念だけど簡単に割り切れてしまうのだ。