みだりな逢瀬-お仕事の刹那-
それはささやかな願いも虚しく、社長室から書類を取って来いというものだ。
「どうなの?」
「き、昨日は…節電のため、電源OFFの日と決めておりますので」
苦手なモノからあっさり逃げられるほど、底辺で生きる社会人は甘くない。
笑みを浮かべてさらさらと交わすのは、大人のセオリーであり生きる術だ。
「へえ、それなら水曜日は連絡しない」
「かしこまりました」
「それ以外は自由ってことだしね」
そしてこの男の嘘っぱちな笑顔は、今やセンブリ茶のように苦い代物である。
くすくすと軽やかに笑われる度に、屈辱というフレーズが頭を掠めていく。
1階上の社長室へエレベーターで伺ったところ、ストライプシャツにモスグリーンのネクタイ姿で、プレジデントデスクに着いていた社長。
メガネの変化に触れることなく、しぶしぶデスクへ近づく私をにこやかにお出迎え下さった。
冒頭の会話を重ねながらデスクの正面に立てば、薄墨色の眼差しがジッと向けられる。
顔が強張ってしまうのはその鋭い瞳に孕む、妖しさのせいだ。一昨日の光景がイヤでも蘇えっていく。
「1週間も持つかな」
「…何のことでしょうか?」
「見えないトコロにつけた印」
「すでに消えかかっておりますので、ご心配には及びません。
ご多忙とは存じておりますが、早急に書類をお願いいたします」
平常心を唱えて答えたが、もちろん嘘。ドラキュラの如く吸われたのか、全身の紅い痕は、微かに消えていない。