ワイルドで行こう

 診察も会計も終わり、一階のロビーを歩いていると母が言った。
「お昼ご飯、ここの食堂で食べていこうか」
「いいわね。こういってはなんだけど。あそこのオムライスが美味しかったり」
 この大学病院で父を看取った。この病院に母も入院した。そんな苦難の中、琴子がよく通った食堂。そんな大変な時だったけれど、だからこそ、そこの食事が美味しかった。
 そのオムライスを食べて、一人奮い立たせていた苦い思い出があるのに。また食べたいだなんて……。
 そんなしんみりしている娘を母が優しい笑みで見つめていた。
 いつしか失ってしまったと思っていた、柔らかくて暖かい手が琴子の背を撫でている。
「ごめんね、琴子。辛い思い一人でいっぱいさせちゃったね。でもね。お父さんもお母さんも本当に助かったよ。だから、自分の好きなこと。これからいっぱいしなさい」
 そんなつもりはなかったのに。やはり、今はとても自分が弱くなっていると琴子は実感した。涙がこぼれてしまった、それどころか止め処もなく溢れてくる。
「琴子……。あんた、やっぱり英児君と」
「大丈夫。ちゃんと会う約束してあるから」
「何があったの……」
 いっぺんに感情が溢れ出した涙声では、何も言えず琴子は暫くはただ首を振った。
「……ほんと、だいじょうぶ。英児さん、なにも悪いことしていないから。むしろ、今の彼とっても大変で会えないの。私、彼のこと大好き。彼も、私を大事にしてくれるし……。たくさん、愛してくれたんだもの。だから私、愛してもらえたから頑張れるの……。そんな気持ちにさせてくれるほど、愛してくれたの」
「そうなの、それならいいけど」
 逆になっている。いや、元に戻った。力を無くした母にはもう夫がいないから、娘の自分しか支えてやれないと思ってそれを負担にも思った。でも……。娘が弱くなれば、今度は母が大きく受け止めてくれる。きっと、きっとその繰り返しが出来るのが『家族』なのだろう。母が戻ってきてくれて、琴子は初めて知る。なにも無くしたわけでもなかったのだと。
 それなら英児のことも一緒。家族になろうと決意したなら同じ。あの夜、彼はどん底にいる母と琴子を助けてくれた、あの底から連れ出してくれた。それなら、琴子だって。今度は琴子が英児を助けてあげなくちゃ。『家族』なら……。
 母も、それ以上は深く事情を探ろうとはせず、ただそっと背中を撫でてくれる。あまりにも娘が泣き崩れてしまったので、娘を人の目から守ろうと気遣って中庭まで連れて行ってくれたほどだった。
「ここで座っていなさい。お茶でも買ってくるね」
 ベンチに座ると、母が杖をついて中に戻ってしまった。琴子も『お母さん、一人で大丈夫』とはもう聞かなかった。

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