ワイルドで行こう
最後に会ったのは、ジュニア社長に契約解除を申し出てきた時。あれ以来。あのとき、目も合わせられないほど冷たくすり抜けて去っていった男性が、今はかつての笑顔。
「元気そうだね」
元気じゃないわよ。なんにもわかっていない。
でも無理もないかと思いながら、琴子からさっさと助手席に乗った。彼が慌てて運転席に戻ってくる。
「そこのカフェでいいわよね」
「うん、よく行ったな。アイスコーヒーが美味いもんな」
少し走ったところに、老舗の珈琲店がある。二人でよく行った店だった。
「琴子、そこのミルフィーユが好きだったよな」
もう、どうしてくれよう。そのミルフィーユは苺ミルフィーユで春限定。毎年三月になったら覚えておくよう気をつけて必ず出向き、その期間中に何度も食べに行く。そういうことだったのに。
――やっぱり、ただ付き合っていて上の空だったんだわ。私のこと、自分から見てくれていなかったんだ。と、痛感した。
その珈琲店に入り、良く座った奥の角席に落ち着く。向かい合って座る位置も変わっていなかった。
オーダーをして落ち着くと、彼が言った。
「あれ、ミルフィーユなかったなあ」
「あれ。春しかでないから」
「え、そうだったのか」
やっと気がついたのかバツが悪い顔。今日も白いシャツの襟を立て、さわやかなカジュアルトラッド。柔らかそうな茶色の髪にくるくると流行のパーマをかけて、デザイナーらしくファッションには敏感でソフトな印象でまとめている。お洒落で繊細で、その気になれば女性を喜ばせるお洒落なエスコートも出来る。だから琴子もすぐに好きになってしまった。でもそれは『マニュアル』だった。そして琴子も悪くは言えない。その『マニュアル』をしたかったのだから……。
でも今となっては物足りない。あまりにも、強烈すぎたから。なにもかも。
窓辺の席、まだ薄い闇の空。だけれどまた山間から黒い雲が覆い被さろうとしていた。蒸し暑かったのは雨が降る前兆だったようだ。そんな空を眺めていると、気まずそうに黙っていた雅彦がやっと口を開いた。
「お母さん、元気か」
「うん。だいぶ気持ちも落ち着いたみたいで、いまリハビリにも通い始めたの」
「良かったじゃないか。家から出ないといっていたから」
彼のとってもほっとした顔。でも琴子はそれすらも……。何故、母が前向きになったのか。貴方、分からないでしょうね。という苛立ち。
「だから安心して。なんとか母と二人で元通りにやっていけそうだから」
その途端だった。彼が原稿を持ち歩いているバッグのポケットから黒くて小さな箱を、意を決したように琴子の目の前に置いた。
しかもその蓋を開けた。ビロードの高級そうなその黒い箱、そこから貝の中から出てきた宝石のように、きらりと輝きを放つものが出現。