ワイルドで行こう
――『お願い。今夜はもう眠らせて』。
昨夜、彼女が困った顔で懇願した。ただ、眠る時に彼女の柔肌が直に触れていないと英児も落ち着かないだけの話――。いや、違うなと英児は自分でため息をついた。年甲斐もなくがっついてしまう。大好きな彼女と同居を始めたので、隣にいるとついつい肌を触りたくなって……。夜のベッド、その隣にいると触るだけで終わらなくなってしまうのも頻繁で。
彼女が残業続きの時は英児も遠慮する。でも、それが終わったばかりだったからついつい飛びついてしまったのだが。そうだった。疲れているんだから、眠らせてあげるべきだったのに。
「はあ。俺のこの堪え性ないの、どうにかならないのか?」
よくこれで、あの大人しそうな彼女が受け入れてくれたなあと今でも思っている。
あの大人しそうな……。そう思うと、英児はある夜の苦い思い出が蘇ってしまいつい顔をしかめる。
その夜は。桜の花が今にも咲きそうな、雨上がりの夜のこと。
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その夜は。桜の花が今にも咲きそうな、雨上がりの夜だった。
「ご、ごめん。悪かった! 大丈夫ですか」
「だ、大丈夫です」
春らしいグリーンのコートをお洒落に着こなしていたOLさん。その彼女を黒い泥で汚してしまった夜。
目が合うなり、そのお洒落で可愛いOLさんがさっと走って逃げてしまった。
もう、ショックだった。
毎夜、車を乗り回している自分が『ほんのちょっとぼんやりした』瞬間に、よく知っていたはずの水溜まりに入ってしまっていた。
というか。夜道を足早に歩いていく可愛いOLさんが気になって、つい視線がそこに留まっていた。
嘘だろ。本当は、煙草なんて吸わねーだろ。すげえいい匂いさせてんじゃんかよ――。そう思ったから。
泥を跳ねる前。彼女は古い煙草店の自販機にひっそりと立っていて、とても疲れた顔で項垂れていた。でもきちんとブラウスとコートとスカートを着こなして、いかにも仕事を頑張っていそうな上質のバッグを肩にかけて。髪の毛はぼさぼさだったけれど、英児が近づいた途端『きちんと女子』の匂いがした――。『煙草吸ってる匂い、ぜんぜんないじゃねーかよ』というのが、第一印象。
どーせ、買わないんだろ。つまんないことで、煙草に走るなよ。嫌なことあって、ちょっとぐれようとしてるのか? もういい歳した姉ちゃんだろ。せっかくいい雰囲気持ってるんだから、今更、こっちの煙にはまることないぜ。
内心そう思いながら、自販機前で迷っていそうな彼女に声をかける。
「そこ、いい? 買ったならどいてもらえる」
さっさとここから離れな。ここで思いとどまっておきな。そんな気持ちだった。