ワイルドで行こう
「お、お前。どうしてここに」
眼鏡の奥の眼差しがにっこり微笑んだ。
「熱が下がったから。会社に行って少しだけ手伝ってきたの」
はあ? お前。そんな身体なのに毎度の『私、お手伝いします』根性でなにやってんだよ!と怒鳴りそうになったのだが。
「実は本多君から連絡があって。どこに保存してあるかわからないデジタル版下があって、琴子なしで社長が探しているけど見つからないから、どこにあるか思い出してくれないかと。社長が『琴子がいなくても俺一人で出来る』とデザイナー達に意地を張ったらしいの。でも、それではデザイナー側のスケジュールが噛み合わなくなるロスタイムにしかならないから、なんとかしてほしいという連絡だったの」
あの前カレめ。仕事さえうまく廻れば、琴子が熱で寝込んでいてもたたき起こすのかあーと一瞬頭に血がのぼりかけた――が。
「保存場所さえ教えてくれたら本多君が探すと言ってくれたんだけど。私が出向いた方が確実だろうからと、熱も下がったからタクシーで事務所に行ったの。すぐ見つかったから、帰ろうとしたんだけど……」
問題の事務処理だけをして事務所を出てきた。でも……と、琴子が潤んだ目で英児を見つめる。
「……一度、外に出たら。もうここに帰れるような気がして」
家に帰ってまた静かに横になるより、英児のところまで帰ってきてしまったということらしい。
「だって。朝起きたら、私……慣れている自分の部屋なのに『英児さん』て声に出して隣を探していたんだもの。はっきり目が覚めてそうだ私の部屋だったんだと、ちょっと驚いてがっかりしたりして」
空色のマフラーとマスクに覆われてくぐもった声だったが、英児にははっきりと聞こえた。しかも英児が落ち込んでいたのに、琴子の方が涙ぐんでいた。
「お母さんが傍にいて安心して眠れたけど。でも、やっぱりもう、私の気持ちは龍星轟にあったみたい」
片割れがいなくて落ち着かなくて寂しかったのは英児だけじゃなかった。琴子はもっと? こんな、すっとんで来るみたいに帰ってきてくれるだなんて。
「琴子」
階段を少し上ったところにいる彼女を英児はそっと抱きしめていた。そして水色のマフラーを指先でのけマスクをのけ、唇を探した。熱のせいか、すこしぷっくり腫れたようにみえる唇が、なんだかいつもより艶っぽい。それを今すぐ吸って……。
だが英児の熱い視線がどこに注がれているか、琴子に気がつかれてしまう。
「ダメ、店長に移っちゃうから。キスもダメ」
琴子の手が英児の頭を押しのけた。