ワイルドで行こう

 マスターがオーダーを取りに来る。
「俺、コーヒー。ホットで」
「私も。同じものをお願いします」
「琴子、ピザでいいよな」
「うん」
 慣れたやり取りをマスターも微笑ましく見守ってくれている。
「今日はシラスの釜揚げ。今朝の獲れたて、茹でたて。ガーリック醤油仕立て」
「美味しそう」
 琴子のお気に入りだった。なにがトッピングされるかその日によって違うところが楽しみだという。
 いつもの和やかさに包まれ、オーダーも終了。大きな身体の白髪マスターがのっそりとカウンターに消えていく。
 ほっと一息のテーブル。冬でも瀬戸内の海はどこまでも青く静か。そんな穏やかさに包まれるひととき。二人は黙って海を眺めていた。
 だがここで英児は密かに胸をドキドキさせていた――。
 静かな青い海を見つめて優しく微笑む琴子を目の前に。この前から『いつ言おう、いつ』と思っていたこと。それはもしかして『今』なのではないかと。
「こ、琴子」
 いつかの大人っぽい黒いワンピースの上に、白いふわふわのカーディガンを羽織っている琴子。そんなふんわり優しい彼女の眼差しが英児と合う。
「これ」
 英児はネルシャツの胸ポケットから、ここ数日ずっと忍ばせていたものを彼女に差し出した。
 茶色の罫線で整えられている白い用紙。それをテーブルに広げると、琴子が驚き英児を見上げた。
「ここに、お前の名前、書いてくれねえ?」
 一番上の枠を英児は指さす。もう琴子は絶句していた。
「ど、どうしたの、英児さん。これ……婚姻届」
 テーブルに広げた用紙は、数日前に英児が市役所まで取りに行った『婚姻届』。
 突然だとわかっている。『何故、急に』と驚かれても仕方がないとわかっている。でも!
「とことん、俺の感覚で悪い。きっと『今』なんだと思う。これから式をしてその時にサインしてとか、その日に市役所に持っていくとか……。それは確実にやってくる瞬間だと俺もわかっている。でも、なんか。『今』、お前と一緒になりてえって俺が叫んでいるんだよ。感覚つうか、その……」
 どう説明すればいいのだろう。『俺なんか』と思っていたものがなくなった。この女と出会うべくして出会った。それをグッと感じた今だからこそ、すべてを委ね、彼女を俺の妻に、そして俺は胸を張って夫になりたい。
「だからよ……。その、グッと来ちゃったんだよ」
「グッと、来たの?」
 琴子も訝しそうだった。『待っていれば、いずれその日は来るのに? 急にどうしたの』とか言いたいのだろう?

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