ワイルドで行こう
書き終えると、マスターがひとまずお先の珈琲を運んできた。カップを乗せたソーサーを手に取り、まず琴子の前に置こうとテーブルに視線を落とし……。彼も気がついた。
「え、それ。婚姻届じゃないか」
白髪のマスターが面食らった顔。書き込みほやほやの、人生の上で大事な紙切れが客のテーブルに。
「明日。彼女と持っていって入籍するんだ」
告げると、今度は仰天するマスター。
「ちょ、ちょっと。うちの店に来て、そんな大事なものを二人で書いていたのかい」
今度は琴子が笑って告げる。
「英児さんが急に言いだして。でも、彼らしいから私も書きました。それに……」
そのまま彼女の優しい目線が窓の外の海へと馳せる。
「私、このお店にすごく思い入れがあるんです。英児さんが初めてこのお店に連れてきてくれた夜から、私はそれまでの小さな囲いにいた重い毎日から解き放たれたようで……。このお店で、大事なことを二人で決められたこともまた、ずっと心に残って、支えになっていくと思います」
彼女を連れてきた夜は、この店は月明かりで溢れていて、まだ出会ったばかりの英児と琴子を優しく包み込んでくれた。その夜、この漁村で結ばれた。英児にもその思い入れはある。
そこまで言われたせいか、マスターは一時茫然としていたのだが。やっといつもの穏やかな熊親父の笑みを見せてくれた。
「ありがとう。僕のお店をそんなふうに思ってくれて。嬉しいよ。そして、おめでとう。お幸せに」
琴子はここのマスターが大好きだ。熊親父からの祝福に頬を染めてとても嬉しそう。だが、英児も思う。きっと琴子の亡くなった親父さんは、ここのマスターのように静かで穏やかで懐のでっかい男だったのだろうと。
「そういうことなら。お二人さん、ちょっと待っていて」
珈琲を頼んだのに、マスターはそのまま持って帰ってしまった。