ワイルドで行こう
「ただいま」
 憔悴しきって玄関を開けると、すぐに灯りがついた。
「お帰り。今夜は帰れたんだね」
 母だった。杖をつき、片足を引きずってやってきた。
「琴子、それどうしたの」
「うん……車に泥水を跳ねられちゃって」
「酷い車だね! 待っていなさい、タオル持ってくるから」
「い、いいわよ、母さん。自分でやるから、座っていて」
 だが、母は『いいの、いいの』と言って、片足を重たそうに引きずりながら、でも嬉しそうな顔で行ってしまった。
 父は数年前に他界した。今はこの家で母娘二人で暮らしている。

 昨夜はシャワーも浴びていない。徹夜だった。
 折れそうな心を奮い立たせ、この年度末の忙しい時期を乗り切ったばかり。その最後が会社で徹夜、明けたその日一日も夜まできっちり残業。ただいま帰路につく。
 化粧が溶けた顔に、ばさばさになった油っぽい髪。ずっとカラーリングもしていなくて、茶色と黒色が生え際で目立ち始めて……。ボロボロだった。
 女は綺麗に整った時、凛と出来る。その身なりも整えられない押し迫った状況を強いられ、無事に帰還したところだった。
 そんな忙殺される仕事だけならまだしも……。三年付きあった男とも別れたばかり。しかも最悪の状態で。だから、新品でデザイン最先端の春コートを着て、気分を持ち上げようとしていたのに……。
「もういい」
 やっとシャワーを浴びてスッキリしたところ、クローゼット前にかけたトレンチコートの黒い染みを見つめ、やっと涙がぽろぽろと落ちてきた。
 小さなソファーに座り、クッションを抱えて顔を埋める。この夜、琴子はそのまま眠ってしまっていた。
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