ワイルドで行こう


 でも触れるか触れないかで今日は止まった。いつも琴子の反応などおかまいなしに奪ってしまう男が、今日は鼻先で止まっている。
「わりい、煙草を吸ったばっかで」
 ううん。大丈夫。だって、いつも……
 そう伝えようとしたのに、そこはいつも通りの英児のまま、すぐさま強く唇を塞がれていた。
 煙の匂い、でも、彼の匂い。ずっとずっとこの匂いと一緒に生きてきた。いまさら……。
 開けているドアから店の灯り。でも一歩外に出たここは、磯辺の優しい宵闇の中。賑やかな男達の笑い声がすぐそこで響くのに、ふたりは闇に紛れてそっと熱愛を交わしている。
「……あの日みたい」
 ふと呟くと、英児が目の前でふっと笑う。
「ここに来ると、俺も思い出してしまって、どうしようもない」
 あの時の琴子の優しい匂いも、可愛い目も。そしてお前が着ていたフリルのブラウスも覚えている。忘れられないよ。
 いつになく耳元でそう囁かれ、琴子は気が遠くなりそうになった。
「俺の匂いが、海の匂い。お前がそう言うのが何故か、少し解った気がする」
 そうよ。英児は海の匂い。海で恋人になって愛しあった男の人。愛しあう人間は海から生まれた野生そのもの。そんな原始のまま貴方に愛されて――。
 だから海の匂い。
 そこに私たちの始まりがあるんだもの。
 そう伝えたいけれど、野生的な男との交わりに言葉が入る隙はいつも皆無。
 やがて、煙草を持っていない英児の手が、柔らかに琴子の腰を柔らかに掴んだ。その先、夫がいつもやってしまうことを察知した琴子は、長い口づけから離してくれない英児のその腕を掴んで止める。
 ――だめよ。ここじゃだめ。
 妻にキスをしたら、いつも必ずその手が乳房を探して触れてしまうから。
 でも奥さんに止められたら、今日は場所が場所だけに、英児もちゃんと心得てその手を止めてくれる。琴子の胸元まで這い上がってくることはなかった。
『お母さん? どこ?』
 厨房から娘の声が聞こえ、やっとそこで英児が唇を離してくれた。
 慌てることなく、彼は琴子の目の前で落ち着いた様子で吸いかけの煙草を口の端にくわえる。
「今夜。俺より先に寝るなよ」
 大きな手が琴子の黒髪を撫でてくれる。『続きはベッドで』というお誘い……。琴子が静かに頷くと、颯爽とした身のこなしで滝田社長の顔で厨房に消えてしまう。


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