ワイルドで行こう
「だから父ちゃんも、今夜はお兄ちゃんにも『走りに行くな』――と言ったんだね」
「見ただろ。あの翔がもの凄い燃えた目をしていた。なんでここに来たと思う? たぶんあいつ、俺に止めて欲しかったんだと思う」
きっとそうだ。小鳥もそう思った。あまりコントロールをしたことがない荒れる気持ちをもてあまして、翔は信頼している、そして畏怖も抱いている『上司』を頼ってきたのだと。
「そして。俺も解る。好きな車をいじっているうちに、気持ちも落ち着いてくるってもんよ。車体をジャッキであげて、ホイールを外して、ボルトとナットを外して、新しいタイヤを転がして持ってきて、持ち上げて……。一人で淡々と作業をして落ち着こうとしているんだろ。それにタイヤを外してしまえば、ひとまず走りにいくことはできない。履き替えている間になんとか切り替えているだろうよ」
そして英児父は事務室の掛け時計をみた。日付を超えて、暫く経っていた。
「そろそろ、終わるだろ。これ、もっていってやれ」
小鳥が持ったままのトレイで湯気も消えてしまいそうな珈琲を父が指さした。やっとピットに行かせてもらえる許可を得て、小鳥も頷いて事務所を出る。
―◆・◆・◆・◆・◆―
ピットをそっと覗いた。
ジャッキで宙に浮いてる青いMR2。
そこには青いストライプのシャツの袖をめくり、胸元も頬もスラックスも砂埃で茶色に汚してしまった翔の姿があった。
クレリックシャツの白い襟も、逞しい腕の途中までめくられた白袖口も、茶色く汚れている。
蒸し暑いピットでは翔の黒髪は汗が滴る額に貼りつき、首筋も汗で光っている。
もう颯爽ときめていた爽やかな青年ではなかった。汗と泥埃で薄汚れてしまった、『いつもの彼』に崩れていた。その姿で工具を持ってタイヤのボルトをぐりぐりと締めている。
真一文字に結ばれた口元、力強い眼差しは、すべてMR2に注がれていた。
……声が、かけられなかった。
親父さんが言ったとおりだと思った。車とぴったり寄り添って、車に触れて、やっと精神を保っている。落ち着かせている。そんな気がした。
入っていっては、いけない気がした。そして、小鳥が入る隙がない。そう……やはり『そっとしておく』のがいちばんだと思った。
コーヒー、置いてきたいけど。たぶん、今の翔兄にはいらないね。
小鳥は静かに背を向ける。
「小鳥……?」
ピットから小鳥の背にか細い声が聞こえ、立ち止まる。そして静かに振り返る。翔がこちらをじっと見ていた。その顔はもう、いつもの『お兄さん』だった。