ワイルドで行こう
「これ。うちの母が持っていってというから。コーヒーだよ」
トレイを差し出すと、翔はじっと黙って小鳥の手元にあるマグカップを見ていた。
「有り難う。戴きます」
翔からこちらに向かってきて、小鳥の胸がドキッと蠢く。
あんな様子のお兄ちゃんに、なんて言葉をかければいいのだろう?
そんな緊張だった。
だけれど。小鳥の目の前までやってきた翔は、いつもの落ち着いた笑みを見せ、小鳥の手元からマグカップを手にした。そして一口。
ほっとついた彼の息が、小鳥のすぐ目の前で落ちてくる。
「社長は」
「事務所で終わるのを待ってるよ」
「俺は大丈夫だから、もう自宅で休んでもらえるように伝えてくれるか。事務所もピットもガレージも、俺が責任を持って閉めておくからと」
だけど小鳥は首を振る。父が自分の経験をふまえたうえで、あれだけ心配していたから、どんなに翔がそういっても安心するはずがないと思ったのだ。
「私がそう言っても、父ちゃんは翔兄ちゃんが終わるまで待っているよと思うよ。そう言いだしたら聞かないことは、お兄ちゃんもわかっているでしょ?」
その途端だった。また……翔の表情が険しく戻ってしまった。
頬を引きつらせ、小鳥ではない、どこか違う途方もない向こうを睨むような眼に変貌した。だけど一瞬だった。
「わかった。終わったら、社長のところへ行く……」
直ぐにいつもの物わかりが良い優等生のような落ち着いた微笑みを見せ、背を向けてピットに戻っていってしまった。
子供の頃から毎日、あの人の顔を見てきた小鳥には、なんだか漠然とした不安が広がる。
トレイを持って事務所に戻ると雑誌を広げている英児父が、うとうとしはじめている。いつもだったらもう寝ている時間。
本当なら小鳥も二階自宅に戻って部屋で勉強をしているか寝るところなのだが、どうしてもあの『納得したような微笑み』がひっかかって、小鳥は矢野じいのデスクに座ってジッと車も走らない夜の道路を見て考えていた。
翔兄って真面目で優等生タイプ。
でも人間って本来それだけじゃないよね。
あんな顔もするなら、翔兄だって感情的になって……。普段の理路整然とした落ち着きなんて、保てないほど狂うこともあるのかも。
いま、小鳥はそんなことを淡々と考えていた。
もし翔兄が今までにないほどの崩れた姿を見せたら、小鳥自身、どう思うだろうか?