ワイルドで行こう
だけど。それだけで琴子もすっと熱がひいた。
「この前のサンプルで充分、先方様も『サンプルのままで充分いい』と喜んでいたのに。どうしてサンプル上がりのままの仕上げではだめなの。オーダーが立て込んでいる時は、ともかく『喜んで頂けれる形であれば良い』ぐらいの要領の良さも、妥協も必要だって。本多君ももうよく知っているでしょ」
管理的な仕事を任されていると、どうしてもこのようにドライにならざる得ない時もある。琴子だって、理想あるデザイナーにこんなことは言いたくない。
「喜んでもらえたから、サンプル以上のものを受け取ってもらいたいだけだろ。そういうのが次の仕事にも繋がるんじゃないのか」
そう言われ、琴子はその気高いデザイナー精神に胸打たれてしまった。
「そ、そうよね。うん、そうだわ」
「いや……そっちが言っていることも間違っていない。だから。朝までに絶対に仕上げる。図案も使う画材も決まってる。あとは描き方、描き出す雰囲気」
そこまで高まっているなら、琴子も一安心する。そんな落ち着いた琴子を見て、どうしたことか雅彦が静かに笑っていた。
「馬鹿だな、俺達。もっと前にこうして話していれば……」
そうね。琴子もそう思った。だけれど、元カレの雅彦が今の状態に落ち着いたのは、琴子一人ではどうにもならなかったことだと思っている。
彼を変えたのは琴子じゃない。きっと……『英児』。私の夫。
「いや、もっと馬鹿なこと、いま言った。忘れてくれ」
そんなこと、俺達には絶対にあり得なかった。もう少し歩み寄っていれば上手くいっていたかも、なんて。絶対に、二人だけの間ではなかった。いまそう思えるようになったのは、互いに『新しい出会い』と『お互いに違う道を歩み始めたから』だ。彼がそう言いたそうにして、その言葉すら飲み込んだのが琴子にも伝わってきた。
だから、琴子は彼の言葉に一切反応はせず、聞こえていたのに聞こえてなかったような残酷な態度しか取れなかった。
「ちゃんと食べてね。本多君、ここ二晩ほど、あまり食べていないし、寝ていないでしょ」
「それぐらい。俺には当たり前だって知っているだろ」
そうよ、元カノだからよく知っている。そんな彼によく放っておかれた。だからよく知っているからこそ、それぐらいは心配させてよ――と、思ったのだけれど。そこは会話の途中で無反応を示した元カノへ、同等のお返しをしてくれたようだった。つまり『もうお互いに気遣い無用』という決着。
だけど、それで琴子の心は少し軽くなる。元カレ、元カノの状態で、どうしてか小さなデザイン事務所の同僚になってしまったが、恋人としてはあんなに上手くいかなかったのに、仕事相手としてはこのうえなく上手くいっている。不思議だった。